りんごのうえん

反資本主義、反家父長制

面倒な批判を切り離せる特権について

昨日の記事で言及した炎上案件について、Twitterでの反応などを見ていたら、ファンダムの暴走が酷い。私のツイートにもクソ引用やクソ返信が来た。とにかく、批判者へのバッシングが加熱している。

この件への批判者を、一人残らず叩き潰そうとでも言うのだろうか。そんな意気込みを感じてしまう。暴走しているのは、件の声優のファンだけではないだろう。本件に便乗して批判者を叩いて回っている層が、一定数いるのだと考えられる。

一つ、印象的な引用をもらったので紹介しておこう。

うるうせえめんどくせえ。
自分たちがオタクと同じ汚物だという自覚が足りてない。 https://t.co/ucJWNmNgAl

— 咲本 (@sakimoto_nihon) 2023年4月2日

 

とにかく「うるせえめんどくせえ」← この一言に尽きるのだろう。

面倒なことを考えずに、気軽に娯楽を楽しみたいという気持ちは分かる。しかし、マイノリティは、気軽な娯楽であるはずのコンテンツにすら踏まれる。作品や、演者や、他のファンからマイクロアグレッションやヘイトを受けることが多い、今回の問題のように。

 

オタクと呼ばれる層が、批判者を自分たちの集団から排除し、敵/味方と分かりやすい虚偽の構図に書き換えるさまも観察できた。「件の声優さんや、その出演作品のファンとして批判しています」といった発言に対して「お前は本当にファンなのか」などとジャッジするようなことを言ったり、上から目線な態度で詰め寄ったり。こうして批判者を排除して、「うるさいことを言うあいつらは敵だ」と、攻撃しているのだ。
批判者をバッシングする人たちは、批判者のほうが総攻撃を仕掛けてきたかのように物を言う。実際は、批判者の多くは各自、足を踏まれたことに怒っているだけだ。今回、炎上を仕掛けてきたのは、声優とそのファンダムだ。

 

みんな自分が生き延びることで忙しいし、疲れきっているのだろう。推しを消費する以外、何も考えたくないという気持ちは分かる。社会への批判や自分の特権性についてなど、考えたくもないという気持ちはよく分かる。

うるさいことや、めんどくさいことを考えずにコンテンツを楽しめるのは特権だ。その特権性は、認識してほしい。

自分たちの存在する社会がどういう構造になっているか、どういった差別構造に加担してるか、どんな特権性を持っているか、少しは考えてほしい。自分が何の上に立って、何を消費しているのか、客観的に振り返ることをたまには意識してほしい。

女性やクィアなどのマイノリティは、多くのマジョリティにとっては安心して消費できる存在であってほしいのだろう。差別された側のマイノリティ側の意見でも「自分は差別だと思いませんでした」「これくらい全然大丈夫です」と言うものだけが拾われて、「これは差別だ」と批判する意見は叩かれたり、無視されたりする。

同性愛をネタに使うなと言う批判に対し「せっかく取り上げてやったのに」「そんなこと言われたら、腫れ物扱いしかできなくなる」との攻撃が、Twitter上に溢れている。

ヘテロ/非ヘテロの軸で、ヘテロ(とされる側にいる人びと)が、非ヘテロをネタにしたことで批判され逆ギレするさまは、女性差別やセクハラに対して怒る女性に「せっかく好意を示してやったのに」「男に相手してもらえなくなるぞ」と言い放つ男性を連想させる。ヘテロ/非ヘテロ、男性/非男性の軸以外でも、このような事象が起こるだろう。

 

私などがうるさく批判したところで、社会や公式が相手にするのは、批判しない層や、批判の声を潰す層だ。残念だけど、それが現実だ。「ポリコレうるせえ」なんて言っちゃう層のほうが、客として相手にしやすいのだろう。

そんな客を相手に商売しているのだから、次もまたどこかで、同じような炎上騒動が起こるだろう。

日本は賃金が低いうえに労働時間が長く、求められる仕事のクォリティは高い。人民を賃労働や家事労働で疲弊させ、分断統治しておけば、権力は安泰というわけだ。アニメかなんかのエンタメは、人びとから金を搾り取るのにも、プロパガンダに使うのにも都合が良い。


私の好きな作品の一つである『ラブライブ‼』は、おそらく反ポリコレ層がメインターゲットであろう。露悪的な表現は少なめだが、中立を装うことは、差別構造がある現状への加担である。

スパスタの3期にも、虹学の映画にも、スクフェス2にも、なんの期待もできない。

「次はどんな手口でクィアベイティングしてくるのだろう」「どんどん露悪的になっていくのでは…」と、恐怖さえ感じている。

おそらく、オタクと呼ばれる層の大多数からは「嫌なら見るな」と叩かれるだろうし、多くのフェミニストからも「なぜ観るの?」と言われるであろう。自分でも、こんな苦行になぜ挑むのか、正直よく分からない。推しキャラへの愛と引き換えに、自分の尊厳を売り渡しているような気がする。

アニメを観たり、ゲームをしたりする余力があるのなら、社会学の本の一冊でも読んだほうがいい。そう、自分に対して思ったりする。

クィアやGLといったテーマの映像作品を観るにしても、もっと良質なものはたくさんある。

クィアベイティングにならないよう配慮されていたり、製作の意思決定の場にクィアや女性が複数名いたり、マイノリティをエンパワメントしてくれたりするような作品は、他にもたくさんある。

ただ、私は二次元のキャラのほうが安心して消費できるし、可愛い女の子の表象が好きだし、推しキャラや推しCPへのときめきを感じて生きていたいと思うので、今後も消費するだろう。そうしてたまに批判して、それでバランスを取っている。しかし、本当にそれでいいのだろうか。推しを人質にとられているような気がする。

よく考えているのは、この性差別的な社会で、自分が'若い''可愛い'といった記号を付与されている女性の表象を消費することが、何への加担であるのか、ということだ。自分の萌えが、どのような性差別に基づいているのか考えている。
差別的な表現のあるコンテンツが好きだと公言することも、良くない気がする。ただ、公言しないと批判できないこともある。自身の良心への苛責がある。

一方で、可愛い女の子を好き勝手消費しても許されがちなシスヘテロ男性や、そんなシスヘテロ男性を批判すれば事足りるといった態度のシスヘテロ女性に対しても、思うところがたくさんある。消費することに抵抗を感じないでいられることへの、嫉妬や羨望もある。
「男性中心/異性愛中心の社会に消費されがちな存在である自分が、男性中心/異性愛中心のコンテンツで若い女性の表象を消費している」というこの心理を、まだ上手く言語化できていない。この葛藤と付き合っていく方法も、よく分かっていない。


とりあえず、まだまだ批判が足りていないので、今後も声を上げようと思う。マイノリティである誰か、特に若い人たちに「社会を批判してもいいんだ」「踏まれたら怒ってもいいんだ」「差別や貧困は自分の責任ではない」と、少しでも思ってもらえたら、少しは罪滅ぼしになるのだろうか。

 

注)冒頭で、4/2の記事を指して「昨日の記事」と言っていますが、投稿日は4/4です。4/3にこの記事に取りかかったのですが、書いているうちに日付が変わってしまいました。